一心寺山門と観音寺城

一心寺の山門は観音寺城門が移築されたものです。

 

観音寺城については、史書によって内容が異なり、城の名前としては景全城、高丸城とも、城主として香川景全、上坂丹波守があげられています。

 

『西讃府史』では香川氏の項目に「七年信景ノ弟観音寺景全ノ家老香川備前守二…長曾我部元親、勢甚強クナリ…景全に謀り、信景ニモススメケレバ」。また、「叉観音寺ノ城主、香川景全、此人ノ城跡彼地二ナシ、思フニ江草山ノ城主細川氏ノコトヲ、観音寺殿トシルセリ、景全ノコトモ治乱記二、シカイエリ、サレバ此人ハ、細川氏ノ養子ナドニテアリシヲ、信景ノ弟故香川ト誤リ伝エシガ」。また、高丸城の項目に「酒屋町ニアリ、城跡三段余、今開テ田トナセリ、フルシロトヨベリ、相伝フ高坂丹波守居レリ、豊臣公ノ興力ニテ郡内一萬石領セリ…大坂陣ノ時分ハ、観音寺ニモ御城有テ、御家頼上坂勘解由萬石トリ」とあります。

 

『讃州府史』には景全城として「香川信景弟景全観音寺村ヲ領テ之ニ城ヲ居ル因テ観音寺景全ト云フ」とあります。

 

一心寺の寺伝には「景全の城主香川景全の崇敬鎮守にして当時の城主より天文十七年に七堂伽藍建立せしめたり」とあります。

観音寺城は香川景全が城主となる前から存在し、築城された時期は不明。天文十七年(1548)に、西讃守護代となる香川之景(信景)の弟・香川景全を迎えるにあたり、当時の観音寺城主が一心寺の七堂伽藍を建立されたということになるでしょうか。

 

香川氏は、南北朝時代から守護・細川氏のもとで讃岐を治めていた守護代一族。多度津本台(多)山に本拠を構え、有事の時の詰城として天霧山に天霧城を築き、のちに戦国大名となりました。

 

吉川弘文館地図帳、戦国時代・群雄割拠地図(下)です。

戦国の雄・織田信長の攻勢によって三好氏が降ると、天正4年(1576)香川之景は信長に属することを願いました。

之景は信長の一字を与えられ信景と称し、麾下に入りました。その後、天正7年(1579)長曾我部元親の侵攻に際し、降伏を受け入れ、元親の次男・五郎次郎親和を女婿とすることで長曾我部氏の支配下に収まることになりました。

そして、豊臣秀吉の侵攻に対して長曾我部氏が和睦を申し入れ、秀吉による四国平定がなされると、守護代香川氏はこの地を後にして土佐へと去っていったと言われます(1585)。

 

観音寺城は高丸城とも呼ばれ、上坂丹波守が城主であったとも伝わっています。上坂丹波守は豊臣秀吉の命を受けこの地に来たと伝わり、生駒家に仕えたと言います。香川氏がこの地を去り、廃城となった観音寺城に入ったということになるでしょうか。

 

『中国・四国城門』には、香川県に現存する城門は三つ。丸亀城門、高松城門は1670年代に完成。

観音寺城は1585年豊臣秀吉の四国平定により廃城。のちに高丸城と呼ばれて、1615~1620年頃まで存在していたようです。そうすると、この門の築造は1585年以前ということになり、香川県内では最も古い城門ということになります。

 

観音寺は文化4年の大火(1804)によって町場の大部分が焼失しますが、一心寺の山門は焼失を免れたと記録されています。山門は平成8年に修復されましたが、昔の部材をできる限り残し往時の姿を保っています。大棟の鬼瓦には桐紋、隅棟と降棟の冑型鬼瓦には十二葉菊紋が使われています。

平成修復前の山門
平成修復前の山門