境内にはよるしるべでお馴染みの幻想的な映像と竹灯りが境内を彩りました。万灯会では、みなさんの献じた灯籠と子ども灯籠を阿弥陀さまにお供えさせていただきました。灯された灯籠はなんとも言えない美しさで、癒されます。今回はミニ縁日も開催し、たくさんの子どもの楽しい歓声が本堂に溢れていました。是非来年も参加したい!との声もたくさん聞かれ、とても嬉しく思います。
8月29日、「万灯会&ぷちしるべ」は、屋外中心で三密を避けることができると考え、予定通り開催しました。今年も「よるしるべ」で好評を博している竹灯りと映像によって境内が美しく彩られました。新型コロナの影響でお祭りなどが中止となって寂しい夏、「この夏、初めて子供たちに甚平を着せることができて良かった」との声もあり、子供たちがそれぞれ願いや目標を書いて仏さまに手を合わせる微笑ましい姿を見ることができました。灯籠が供えられた御仏前で、「新型コロナ終息を願って、豪雨災害の被災者を想って、世の中安穏なれ」と、参拝者と有縁の仏さまとともに願いを込めてお勤めしました。
新型コロナ感染拡大により、延期されていた勧進キャラバン。
開催当日、香川県でも少数とはいえ、感染者が出ていたこともあり、少数の参加者で、マスクなどの感染対策を実施して開催。
まず、到着したキャラバン隊により、本堂に勧進大仏が安置されました。
開式の挨拶ののち、住職がお勤めする中、来場者によって願いの書かれた紙が貼りつけられました。
そこには「コロナの終息」などの願いが込められていました。
その後、コロナ大仏建立の発案者である前田真治氏、風間天心氏と住職を交えて対談。
コロナ禍であっても、コロナ禍だからこそ、すべてを止めるのではなく、できることをやる、心を前向きにすることが大切であるとの趣旨のお話がありました。
その後のミニ大仏ワークショップでは、それぞれ趣向を凝らしたミニ大仏ができあがりました。
コロナ禍で人と触れ合う、仏事にお参りする機会が減って残念です。少しなりとも心穏やかに過ごせるご縁となれば幸いです。まだまだ終わりは見えませんが、新型コロナの終息とみなが健やかな心で乗り越えていけるように念じることです。
今年の「おてらくご」、大盛況に終わりました。落語は桂文我師匠。
まずは、落語と仏教の関係などをお話しくださり、いくつかの小噺で徐々に場が温まります。そして一つ目の演目は「高台寺」。
毎日一文銭で飴を一つ買いに来る女性。三途の川の渡し賃は六文銭、七日目にお金がないというなら幽霊ではないか。案の定、七日目にはお金がないと言う。後をつけていくと墓場で赤ちゃんの泣き声がする。掘り返してみると、骸になった母親と赤ん坊。いのち終えてもわが子がかわいさで六文銭で飴を買って命を守った母心。感動の演目です。
幕間には私が「高台寺」に因んでお話を。
この高台寺(飴買い幽霊)の話に出て来る赤ちゃんはゲゲゲの鬼太郎(墓場の鬼太郎)のモデルになったとか。この話には三途の川、六文銭などの仏教語が出てきます。
三途の河とは此岸(現世)と彼岸(あの世)を分ける境目にあるとされる川。
三途は餓鬼道・畜生道・地獄道をあらわすとも、河を渡る方法に三種類あったためであるとも言われます。
その三途川の渡し船の料金は六文と定められており、仏式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が続いています。
六道とは三途である地獄、餓鬼、畜生に加えて、人間、天人、阿修羅の六つのこと。
それを一つ一つ説明しきながら現代に生きる私たちの姿と照らし合わせて、今、迷い苦しみの中にいるのではないかとお話させていただきました。
この三途の川、六道を超えなければ苦しみは無くなりません。
浄土真宗は三途の川を渡る必要はありません。
「仏光照曜崔第一…三途の黒闇ひらくなり」(親鸞聖人『浄土和讃』)、阿弥陀さまのはたらきで三途の黒闇が開けて、浄土へと往生させていただきます。
川つながりで、美空ひばりさんの名曲、「川の流れのように」を紹介しました。
ひばりさんは「この曲はいいよねといって、人生っていうのは真っ直ぐだったり、曲がってたり流れが速かったり遅かったり本当に川の流れのようなものなのよ。でもね、最後はみんな同じ海に注ぐのよ」とおっしゃったといいます。
親鸞聖人は「如衆水入海一味」(すべての水は海に入って一つの味となる、『正信偈』)とおっしゃっられました。
「南無阿弥陀仏」とは、わが名を称えて浄土に生まれよという阿弥陀仏からの呼び声です。
いつ、どこで、どんな人生を送ろうとも一つのところに生まれる、阿弥陀さまのはたらきである大きな川の流れに乗って、お浄土で仏さまとなって会えるのです。
「おてらくご」のお寺の部分も終わり、再び文我師匠の登場。
師匠が見て来られた、他では聞けない伝説の落語家さんの破天荒な面白さに大爆笑。
そして最後の演目は「試し酒」。
久蔵に「酒5升(約9リットル)飲み干せるか」と賭けを持ちかける。
久蔵は「少し考えるので待っていてほしい」と言い残して表に出て行く。
しばらくあと、久蔵は戻ってくるなり、大きな杯で、5升の酒を1升ずつ飲み干してみせる。
驚きあきれて、「どうしてそんなに酒が飲めるのか。さっき出て行った時に、酒に酔わない薬でも飲んだのか。それとも何かまじないでも受けたのか」とたずねると、久蔵は「酒を5升も飲んだことがなかったので、表の酒屋で試しに5升飲んできた」。
師匠の酒を飲む演技が感嘆と笑いの渦を巻き起こしました。
文我師匠の名人芸を堪能した「おてらくご」でした。またのご来場をお待ちしております。
2回目のジャズコンサート。
今回はヴォーカルのyumieさんと、ピアノに松岡里佳さん、サックスには多田誠司さんをお迎えしました。
多田さんは日本のみならず、世界でも活躍されているすごい方。
多田さんのサックス。その生音惚れ惚れしました。
ジャズだけでなく、ダウンタウン松本人志さんが歌う「チキンライス」なども披露。
yumieさんと松岡さんの掛け合いも楽しく、あっという間に時が過ぎていきました。
初開催のジャズコンサート。歌は地元のシンガーの森弓恵さん。ピアノは愛媛より素晴らしい演奏家の栗田敬子さん。
ジャズのリズム、ピアノの音色、そして歌。歌詞は分からなくても、そのリズムに乗って自然と身体が動き出します。
「アナと雪の女王」などディズニーの名曲メドレーもあり、「夕焼け小焼け」などの童謡ジャズアレンジもあり。ピアノソロでは中嶋みゆきさんの「糸」。アンコールはAIさんの名曲「Story」。
本格的なジャズからみなさんお馴染みの曲まで、ジャズに初めて触れる方から誰でも楽しめるコンサートでした。一心寺の音楽イベントに加わったジャズ、また機会があれば開催したいと思います。
2018年8月19日に開催された「不登校は不幸じゃない」。
小幡和輝さんが発起人となり全国一斉100カ所開催。一心寺は香川県会場となりました。
1994年、和歌山県生まれ。約10年間の不登校を経験。当時は1日のほとんどをゲームに費やしたそうです。
その後、定時制高校に入学。地域のために活動する同世代、社会人に影響を受け、高校3年で起業。様々なプロジェクトを立ち上げ、地方創生の新しい仕組みを構築中。
夏休み明け、子供の自殺が多くなる。そんなバカなことがあってたまるか
このイベント開催にあたって小幡さんは「不登校になった先に居場所があるかどうか。それがとても大切だということ。
9月1日夏休み明け。子供の自殺が多くなる。そんなバカなことがあってたまるか。不登校を肯定するムーブメントを作ります」
「僕の原体験は誰かの参考にはなるかもしれないが、すべての当事者に当てはまるわけではない。一概に不登校といっても、その理由は千差万別。誰かの人生を他の人の人生にそのまま当てはめることはできないでしょう。でも、参考にはなるはず」と思いを綴っています。
ふとしたきっかけで、不登校だった話、それからのきっかけ、そしていまやってることを人々に語ることを始めた小幡さん。
「不登校だったことをずっと隠していた過去は、未来への可能性に繋がりました。不登校だったことは、僕の個性になりました。その体験を他の人にも感じてもらえたら嬉しいです」。
学校の役割は2つ「学び」と「コミュニティ」
不登校だったけど今しあわせに生きている人と、不登校だったことで今ちょっと大変な人とがいる。その二つは何が違ったのか。
小幡さんは学校の役割は2つあると言います。それは「学ぶこと」と「友達、コミュニティを作ること」。
不登校でもその2つを代用できれば問題ない。振り返ってみれば僕にはそれがあった。
今ならネットで勉強することも、SNSなどでコミュニケーションを取ることもできる。
どこかで「学び」と「コミュニティ」ができなければ不登校はちょっと大変。
学校に行けば、それを与えてくれるから楽。不登校は決して楽な道じゃない。
自分で学ぶにはお金も手間もかかる。だから勧めるということはしないけれども、不登校にも可能性は広がっている。
世界は広い。そういう選択肢もあるということを知ってほしい。
香川県会場主催者の思い
松本貴大さん。彼は大学時代に不登校になった経験から、少しでも役に立てばと今回主催者として名乗りをあげました。
もう一人、龍田宗孝さん。彼も不登校直前で何とか耐えたという経験を持っています。
松本さんは、学校で勉強すればするほど、できる人間しか、しあわせになれないんじゃないだろうか。
僕は、いくら勉強しても努力しても、それは明るい未来に繋がらないんじゃないか、学校なんて意味ないんじゃないか、と感じたことが不登校のきっかけだったそうです。
「つながり」「そばにいること」の大切さ
不登校に苦しむ子どもたちとどのように接したら良いのか。
「こちらから声を掛けて何か提案する。相手からの返答は否定しない。それを受け入れてまた提案する。その繰り返しが大切」。「不登校の話題ではなく、それ以外で、相手が好きな話題を何気なく話す。信頼できる相手と認めてもらえなければ心は開かないから、無理して核心に触れない」。
「不登校になっていても、プライドがある。だから親や身近な人にはなかなか話せない。その気持ちを大切にしつつ対応しなければならない」。
「振り返ってみれば、不登校に悩んでいた時期でも、だれかとつながっていた。好きなゲームをする友達であったり。悩みを打ち明けることができれば、孤独が解消されてもっと楽になっていただろう。それができなくても、そういう存在がいたことによって何とか自分を保つことができたように思う」。
小幡さんも言っていたキーワード「コミュニティ」、どこかと誰かとつながっているかどうかが本当に大切だと実感。
不登校の子供を持つ親の声
「学校に行くことはその子の未来の選択肢を広げるため。だから親としては何としても行かせたい」。
「社会に出たらもっと大きなストレスがあるだろう。学校はそれに耐性をつける役割があると思う。学校に耐えることができなければこの先もっと大変ではないか」。
―子供にとっては、未来を考えるよりも今の苦しみが大きいのでしょう。それをどう受け止めていけば良いのでしょうか。
「不登校児の親になってみて、自分の苦しみ以上に、子供が悩んでいることが苦しい。自身を振り返ってみて、自分の親に申し訳ないという気持ち」。
―その気持ちが子供に通じるだけで解決するような気がします。それが難しいのでしょうが…
時間が経つにつれて、最初は固かった参加者の顔が明るくなっていったような気がしました。
何かが解決したわけではありません。しかし、同じ思いを抱えている者同士で話をするだけでも心強くなったり、気が軽くなったりするのではないでしょうか。
お寺の住職ができること
このような悩みの相談に乗ることも、お寺の住職の仕事の一つでしょう。
ただ、私にはそれほどの力量はありません。しかし、その思い抱えた人たち同士が寄り添う場を作る、また、必要に応じて専門家につなぐという役割はできます。
これからも様々なことを学びつつ、活動の幅を広げてみなさまのお役に立てるお寺になればと願います。
今年の「おてらくご」は笑福亭松枝師匠。
お寺を舞台にした「餅屋問答」。
一つのジェスチャーでも人によって意味が変わってくる。
人は見た目に左右される、事実は一つでも見方によって真実が変わってくる。
たとえ病であっても受け取りによって変わってくる。
すべて南無阿弥陀仏で受けとっていく。と、明石家さんまさんの言うように「生きてるだけで丸儲け」、一日一日命をいただいている、だから感謝しかない。というようなお話をさせていただきました。
もう一席は「相撲場風景」。師匠の名人芸を楽しみつつ、お寺、仏教に触れていただきました。
初開催の「おてらくご」。
仏教のお説教から始まった落語をご縁として、仏教に触れようという企画。
咄家さんは上方落語の林家染雀師。最初の演目は「宗論」。
もともとは浄土真宗と日蓮宗の信者のいさかいの話が、いつしか浄土真宗とキリスト教になりました。
熱心な浄土真宗の家の息子がキリスト教に帰依するようになったことから物語が展開。
途中、私のいのちは神さまが作ったという息子、それに対して「私の息子と違うんかい、おっ母が神さんと浮気したんかい」とつっこむ父親。
仏教ではものごとは因縁によって成り立っていますから、神さまのようないのちをものを作り出す絶対神を認めないという、双方の教えのコントラストから笑いが生み出されます。
一席終わった後は、「寿限無」を交えながらお念仏のお話。
生まれた子供にめでたい名前を付けようとして、お寺の和尚さんの所へ相談に行った父親。
和尚さんから色々と教えてもらっためでたい言葉を、全て並べて子供の名前にしてしまう。
「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の水行末…」
「寿限無」とは、寿(いのち)に限(かぎり)が無(ない)ということでめでたい。
これは浄土真宗の御本尊、阿弥陀仏のお名前、無量寿。
阿弥陀というのは古代インドの言語で、日本語に直せば、かぎりないいのちとはかりしれない光という意味になります。
浄土真宗は、そのはたらきを身に受けていることに気付かされる教えです。
「五劫の擦り切れ」の劫とは、時間を表す単位。
1辺4000里の岩を100年に1度布でなで、岩がすり減って完全になくなっても劫に満たないと言われます。
インドでの計算では約40億年になるそうです。それが5回擦り切れる、つまり永久に近いほど長い時間のこと。
お経には、阿弥陀仏が私たちを救うにはどうすればよいか考えるのに五劫かかったと言います。
それほど私たちは罪深い、さとりを開くことが、仏になることが難しいにも関わらず、南無阿弥陀仏によってお浄土へ、仏とならせていただくのが浄土真宗です。
「海砂利水魚」は、海の砂利や水中の魚のように数限りないことを表します。
浄土真宗のお経には「恒河沙数」とあります。川の砂粒ほどに数え切れないということを表します。
金子みすゞさんの詩に「大漁」というものがあります。
「朝焼小焼だ大漁だ。大羽鰮の大漁だ。浜はまつりのようだけど、海のなかでは何万の鰮のとむらいするだろう」、仏教は、水の中にも数限りないいのちがあり、それは私と同じ重さのいのちであると教えます。
また、「星とたんぽぽ」、「青いお空のそこふかく、海の小石のそのように、夜がくるまでしずんでる、昼のお星はめにみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」。
浄土真宗は、恒河沙数の仏さまがいらっしゃると説きます。
その数限りない仏さまがお念仏する私を見守ってくだっている、そして私も人生を終えたらその仏さまの一人となって、のちの者を見守らせていただくと伝えます。
当時の人々は、このように落語の中に残るほどに、仏教を、浄土真宗の教えを聞いて生活していたのだと感嘆させられます。
「おてらくご」のお寺の部分も終わり、最後にもう一席。
上方落語の名作「はてなの茶碗」。二束三文の水漏れする茶碗が、あれよあれよと1000両の茶碗になるお話。
最後は師匠より踊り芸のサービス。後頭部に面をつけて、後ろを前に見たてた踊りでこれまた大爆笑。
大笑いしながら、お寺、仏教に触れていただく機会となりましたなら幸いです。
初めて開催した「お寺で休日~寺カフェ~」。
40名程の参加がありました。込み合った時には十分な応対ができませんでしたが、お寺の雰囲気を味わいながら、お茶を一服されたり、写経をしたりとのんびりとした時間を過ごしていただけたかと思います。
写経体験では、初体験、筆を持つのもいつ以来かという方が、見本と見間違うほどの出来栄え、楽しかったという感想をいただきました。また様々な形で開催したいと思います。お気軽に足をお運びください。
初開催の聞香茶会。
まずは少々お香の説明。白檀と六国(羅国・真南蛮・真那賀・佐曽羅・寸門陀羅・伽羅)五味(甘・酸・辛・鹹・苦)をすべて聞いていただきました。
十分なことはできませんでしたが、楽しんでいただけたようです。
最後にお茶を一服召し上がっていただき、終了。良い香りのするお香を聞いて、心清らかに仏さまに手が合わさるご縁となりましたら幸いです。
機会がありましたらまた開催したいと思います。