真宗興正派と本山興正寺

真宗興正派は、親鸞聖人(1173~1262)を宗祖と仰ぐ浄土真宗の一派です。

本山は京都市七条堀川にある興正寺です。

 

興正寺の創建は鎌倉時代にさかのぼります。承元の法難(建永の法難)により越後国(新潟県)へと配流された親鸞聖人が、建暦元年(1211)に勅免をうけた後、翌建暦2年(1212)に京都へと一時帰洛して、山科の地に一宇を草創したことに始まります。

 

興正寺という寺号は、順徳天皇(1197~1242)によって名づけられたと伝えられ、日本に仏教をひろめた聖徳太子の事績にちなみ「正しき法を興し、さかえさす」(正法を興隆する)との願いが込められています。

 

第7世了源上人(1295~1336)の時代に寺基を山科から京都東山の渋谷へと移し、寺号も佛光寺と改めます。

佛光寺の寺号は、御本尊の阿弥陀如来像が光明を放ったという霊験にもとづき後醍醐天皇(1288~1339)から賜ったと伝えられています。佛光寺の教勢は飛躍的に拡大し隆盛を極めます。

 

室町時代、第14世蓮教上人(1451~1492)は、本願寺の蓮如上人(1415~1499)と歩みを共にし、佛光寺を弟に譲り、再び山科の地に多くの門徒と共に興正寺を再建することになりました。

その後は本願寺と歩調を合わせ、度重なる移転にも常に行動を同じくしています。

 

第17世顕尊上人(1564~1599)の時代であった天正19年(1591)に、興正寺は本願寺とともに現在の京都堀川七条の地へ寺基を移します。

お堂が隣接して建てられているのも本願寺との深い関係を示しています。

 

一方、江戸時代を通じて興正寺は西本願寺の末寺でしたが、本山として独立しようとする気運も根強く、第27世本寂上人(1808~1877)の時代であった明治9年(1876)に一派本山として独立を果たしました。

 

明治35年(1902)、興正寺は火災によって、いわゆる「ひとつ御堂」と称せられた本堂をはじめほとんどの堂舎を失います。残されたのは鐘楼(1774年建立)や経蔵(1848年建立)などわずかな建造物だけでした。

翌年に再建の議が決し、明治45年(1912)に御影堂が、大正4年(1915)に阿弥陀堂が完成しました。

 

多くの変遷を経ながらも「正法を興隆する」という願いのもと興正寺の歩みは続けられています。

 

興正派には約500ヵ寺が所属しており、7つの教区に分かれています。

香川県には約200ヵ寺あり、2つの教区があります。

一心寺は、丸亀市、三豊市、観音寺市、善通寺市、多度津町、まんのう町、琴平町で形成されている西讃教区に所属しています。