お仏壇とは「仏さまを安置する壇」のことであり、私たち浄土真宗では阿弥陀仏をご本尊としています。
さまざまなことに執着し、悩み苦しんでいる私の心の依りどころとして安らぎを与えて下さり、浄土へと導いて下さるのが阿弥陀仏です。
お仏壇には金仏壇や唐木仏壇などがあります。真宗では真実の世界である美しい浄土をあらわすために金仏壇を本式にしています。
しかしご本尊を迎えることが大切ですので、お仏壇の大きさ・種類を気にすることはないでしょう。
それではご先祖はどうなったかというと、阿弥陀仏の浄土に往生され仏さまになられているのです。
みなさんのご先祖は私たちの本当の幸せ、阿弥陀仏の本願を信じて安らかな人生を歩み、後に同じく浄土に往生して仏となってくれと願われていることでしょう。
阿弥陀仏とご先祖は私たちのことを念じておられるのです。その仏さまの心を「南無阿弥陀仏」とお念仏していただくわけであり、またそのお念仏は仏さまへの報恩感謝なのです。
真宗では、お仏壇にご本尊をお迎えするときの法要を「入仏法要(式)」,(お移しするときの法要は「遷仏法要」)といいます。
入仏といってもお仏壇に魂を入れる(性根入れ)のではなく、ご本尊をお迎えしたことを喜ぶものです。
また「お仏壇は家の中に亡くなった方が出ないと迎えないもの」といわれます。
しかし考えてみれば、私につながる数限りないご先祖が仏さまとなられているはずです。
私たちみなを導いて下さるのが阿弥陀仏ですから、日々家庭で、またお寺にお参りして手を合わせお念仏したいものです。
●ご本尊
阿弥陀如来絵像 もしくは 南無阿弥陀仏(六字名号)
●脇掛け(向かって右)
帰命尽十方無碍光如来(十字名号)もしくは 親鸞聖人絵像
●脇掛け(向かって左)
南無不可思議光如来(九字名号)もしくは 本寂上人(本山興正寺第二十七世)絵像
阿弥陀仏とは、「アミターユス(無量光)」・「アミターバ(無量寿)」という昔のインドのことば「アミタ」を音写したものです。
南無とは同じく「ナモ(帰命)」の音写です。
南無阿弥陀仏とは無量の光・寿の仏さまに帰依するという意味になります。
ご本尊は四十八本の光を放っています。
これは阿弥陀仏が私たちを救うと誓われている四十八願をあらわしています。
また私たちの方へ手のひらを向けられている右手は、真実の世界へ還って来いよという「招喚」(しょうかん)の心、左手はどんなことがあっても必ず救い取るという「摂取」(せっしゅ)の心が込められています。
九字・十字名号(みょうごう)は、阿弥陀仏の別名で、あらゆる世界にけっして妨げられることのない、はかり知ることのできない智慧・慈悲の光が届いていることをあらわしています。「如来」(にょらい)とは「如(真実)より来生する」という意味で「仏」と同じです。
ご本尊は私たちの拠りどころですから、ご本山から迎えるようにしましょう。
仏さまに手を合わせる時にはお灯明をあげましょう。
その明るく照らすあたたかい光は、私たちの心の奥底までも知り尽くし、迷いの闇をくまなく照らして真実に向かわしめる、一切の生きとし生けるものを救い取る智慧・慈悲の光です。
その光から、休むことなくはたらきかけて下さっている仏さまのみ心を味わいましょう。
お浄土は花に包まれたところと言われます。
ですから昔から花によって仏さまを敬ってきました。
みずみずしいお花を供えてお浄土を想い、仏さまのみ徳を讃えましょう。
また小さな華瓶(けびょう)には水を入れ、香木である樒(しきみ)などの青木を挿し(色花は用いない)、清らかな香水として供えます。なお、この他に水や茶を供える必要はありません。
阿弥陀仏のお浄土はすばらしい香りで満ちていると言われます。
その芳香で心身を落ち着かせて清らかなお浄土を想い、仏さまを敬いましょう。
抹香は金香炉に炭を入れて焚きます。土
香炉には線香を用いますが本数に決まりはなく、立てないで横にします。
香炉にマッチの燃えカスを入れるのはやめましょう。
次に焼香の作法ですが、焼香卓の二、三歩手前でそのままご本尊に向かって一礼(合掌せずに)し、進んで着座します。
右手の親指・人差し指・中指の三指でお香をつまみ、そのまま二回焼香してから、合掌・お念仏・礼拝します。真宗では、焼香は念を込めるものではなく、その場をお浄土のように清らかにするものですから、お香を額にいただく必要はありません。
線香を長く持たせたい場合は、くの字に何本かをついでおきましょう。
お仏飯はご本尊である阿弥陀仏の尊前に、また親鸞聖人の絵像などに供えます。
ご本尊にお供えするということは、すべての仏さまにお供えしているということです。
朝お供えして昼に下げるのが正しい作法ですが、これはお釈迦さまの時代の仏教徒は午前中に食事するのみで、午後は食事をする時ではないとされていたことによります。
しかし、法事などには一日中お供えしておくこともあります。ご飯を炊けば真っ先にお仏飯としてお供えし、下げた後はありがたくいただきましょう。
「山・海・里」のものをお供えします。
例えば「山」のものとしては果物など、「海」のものとしては昆布・海苔など、「里」のものとして餅・菓子などをお供えします。
その中でも餅が最高のお供えとされています。
供笥(くげ)などにのせてお供えするわけですが、普通は対にして供えます。
お供えというのは、心情的には仏さまに食べていただくようにお供えするわけですが、それぞれ私たちが生きていくのに必要な食物の一つです。
そうしたいのちの恵みを、仏さまからの頂きものとして感謝する気持ちが大切です。
浄土真宗では、亡くなった方の法名を記すものとして「過去帳」を用い、位牌は用いません。
位牌は中国の儒家から来たもので、霊が宿ると考えられているようです。
みなお浄土に生まれ仏さまになられているのですから、個人の位牌を作り、そこに霊が宿っているなどとは考えません。
過去帳は日にちごとに書かれていますので、当日のところを開き、故人を偲びましょう。
また、過去帳のかわりに「くりだし」が用いられていることがあります。これは亡くなられた月日ごとに、順番に前に出していくようになっています。
大事なことは礼拝するご本尊や脇掛けが隠れないようにすることです。
仏となられた方の法名が書かれているくりだしや過去帳は中段・下段に置くようにしましょう。
仏具は、普段は向かって右からろうそく立て・香炉・花瓶の三具足でも結構です。
また奇数足の仏具は一本足、四角六角のものは一つの面が正面になるようにします。
お仏壇の中は仏具やお供え以外のものは置かず、敬いの心をもって常にきれいにしましょう。
また経卓にはなるべく聖典と念珠以外は置かないように心掛けましょう。
私たちは亡くなられた方の遺骨をお墓に埋葬します。
しかし、お墓に故人が居られるわけではなく、浄土へ往生され仏さまとなられています。
仏さまとなられた方はみな倶会一処(ともにひとつのところで会う)の浄土から私たちを救うためにお念仏の法を説いて下さっているのです。
ですから真宗では浄土をあらわすお仏壇の前で法事を勤め、基本的にお墓でお勤めをすることはありません。
お墓はお骨を納めて、故人を敬い讃えるために建てるのです。
さらにいえば、かけがえのない命を私に伝えて下さったご先祖に感謝しつつ、その命を精一杯生きてくれという私たちへのご先祖の願いを聞く場でもあります。
お骨を前にして諸行無常のことわりをかみしめ、生死を超える確かな依りどころとなるお念仏の教えをいただきましょう。
また分骨は、故人の身が裂かれてバラバラになり迷ってしまうからいけないという人がいるようです。
しかし分骨によって、縁のある人々が少しでも多く故人の遺徳を偲び、仏さまの慈悲に出会える縁となれば喜ばしいことでしょう。
墓石には、阿弥陀仏によって救われる真宗門徒として「南無阿弥陀仏」の名号を刻むようにしましょう。
もしくは、みなお浄土で会うという意味で「倶会一処」としても良いでしょう。
また法名を刻む石は「法名碑」としましょう。
お墓でのお勤めもお仏壇の時と同じく「性根入れ」とは言わず、「建碑法要」などといいます。
お墓参りにはお灯明・お花・お線香を供えて手を合わし、お念仏しましょう。